国語は大事?

 暑い日が続くようになってきました。そろそろ本格的に夏到来となりそうです。この陽気になると思い出すフレーズが「おう なつだぜ/おれはげんきだぜ」というものなんでうが、心当たりがあるでしょうか? だいぶ長いこと教科書に採用され続けているので、光村図書の教科書で国語を勉強していた方なら、中1のときにやったかも、と思い出してもらえるんじゃないかなと思うのですが。

 そんな感じで、国語の教科書に載っていたからという理由でだれもがなんと覚えている、共通の思い出になっている作品がいくつかありますよね。その代表がこれだと思います。

https://www.iwanami.co.jp/book/b249308.html

『山椒魚』とか、あと『山月記』なんかも、高校で国語を教わったことがあれば大抵の人は通っているんじゃないでしょうか。とくに『山椒魚』は話の終わり方の不思議さも相まって、記憶に残り安い気がします。

おとぎ話とか、そういうものが子供たちの共通の記憶にならなくなってしまった現在、ほぼ唯一、趣味嗜好に関係なくたいていの人が共通の思い出としてしっている話が、こういう「国語の教科書に載っている話」になるんじゃないでしょうか。

別にみんなが知っている話なんて必要ないんじゃないか、というふうに考えることもあるのですが、なんというか、お互いに考えをすり合わせる必要のある場面は常にあるわけで、そういう時に、相手が何を知っているのか、どんなふうにものを考えるのかと想像する基準点みたいのものはあってほしいと思うわけで。

そうすると「日本で教育を受けているなら『山椒魚』とかくらいは知っているはずだ。」と具体的に考えはしないまでも、ある程度共通して持っている記憶と感性があるはずだと信じられる根拠になったりはしないかなあ、と期待してしまいます。国語を押している身としては。

国語を勉強して何の役に立つのか、と言われ続けて、最近は「実用国語」なんて強化もでき、共通テストにもそんな大問ができたりしていますが、物語文の読解とか、そういう「国語らしい」部分というものにも、そういう「共通の理解」みたいななんとなくの意味があってほしいなあと願っています。

なんかずっと自信がない言い方なのは、別に共通の思い出って物語でなくてもよいのでは、とか、そもそも同じものを読んだからって共感が生まれるとは限らないのでは、とか、自分で言ってて突っ込みどころがおおい考え方だからなんですが・・。

 それでも、はっきりと言語化できない部分を表現できるのが物語のよいところなわけで、そのよさがはっきりと言語化できる方がおかしいんです。きっと。国語。必要。