蠶は繭にはいります、きうくつそうなあの繭に。
けれど蠶はうれしかろ、蝶々になつて飛べるのよ。
人はお墓へはいります、暗いさみしいあの墓へ。
そしていい子は翅が生え、天使になつて飛べるのよ。
これは金子みすゞの「繭と墓」という詩です。昭和5年3月10日、彼女は多量の睡眠薬を飲み、“暗いさみしいあの墓へ”自ら入っていきました。もうすぐ27歳になろうかという若さ、幼い娘を残しての早すぎる死でした。
私が彼女の作品に初めて触れたのは学校の授業でした。とても繊細で優しい言葉選びの詩は心にしみわたるものばかりでした。国語の資料集に載っていた写真を見て、「すっごい美人!」と思ったのも好きになった一因かもしれません(笑)。
女の子つてものは、木のぼりしないものなのよ。
竹馬乗つたらおてんばで、打ち獨樂するのはお馬鹿なの。
私はこいだけ知つてるの、だつて一ぺんづつ叱られたから。(「女の子」)
この作品から伝わるように彼女は生来、明朗快活な女性だったのでしょう。しかしその性質とは対照的に彼女の結婚生活は幸せとは言い難いものでした。金子みすゞは1926年に結婚しましたが、彼女の夫は家庭を顧みず、詩作や文通をすることを禁じるなど彼女に大きな制約を強いました。さらに他の女性と関係を持ったことでもらった性病をみすゞにも感染させました。みすゞは夫との離婚を望んで3歳の娘を連れて生家へ戻ります。そして夫とは娘の親権をめぐって争うことになります。病気や夫との争いで心身ともに消耗した彼女は娘を寝かしつけたあと、夜の内に服毒自殺を遂げます。遺書の1通は元夫へ向けたものでその内容は「あなたがふうちゃんに与えられるものはお金であって,心の糧ではありません。私はふうちゃんを心の豊かな子に育てたいのです。だから,母ミチにあずけてほしいのです」という娘の養育を自身の母に託すよう求めるものでした。
彼女が再び評価されるようになったのは1980年代になってからです。分かりやすく優しい言葉でありながら、ものごとの本質的な部分を突いた作品は学校教育にも取り入れられていきます。娘の成長を見届けられない無念さを抱えて“天使になつ”た 金子みすゞは作品を通して多くの人々に心の糧をもたらしたのです。
私が初めて出会った彼女の詩は「私と小鳥と鈴と」です。そしてこの詩は今こそ多くの人が顧みるべき作品だと思います。多様性をめぐる様々な問題が叫ばれている昨今において、本当の意味で多様性を認めるとはいかなることか、ひとつの考えを説いているように思うのです。
私が両手をひろげても、お空はちつとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のやうに、地面を速くは走れない。
私がからだをゆすつても、きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のやうにたくさんな唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがつて、みんないい。